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第9次支援(5月30日~6月4日)の記録

堂本祐三子 宇部協立病院 精神保健福祉士 / 震災支援の記録

福島県災害支援レポート

福島県立医科大学の「心のケアチーム」の一員として、5月30日(月)~6月3日(金)支援活動に参加させていただきました。

30日(月)相馬市での朝のミーティングで、私たち民医連のチーム(東京の大泉生協病院 中島医師、三郷市地域包括支援センター 星野看護師、宇部協立病院 堂本)は南相馬市で活動して欲しいと告げられ、20数キロ南へ行った南相馬市に1週間通いました。

南相馬市は事故を起こした福島原発から近く、ほとんど外部からの支援が入っていないとのこと。
その地域にあった4つの精神科病院は全て閉鎖、精神科クリニックはようやく2箇所が再開という状況で、精神科通院していた方の治療中断が懸念されました。
私たちは、自立支援医療を利用なさっている方の戸別訪問を行いました。

原発事故後は多くの方が仙台や新潟へ避難なさっていたようですが、避難先では何とか工夫をして薬の確保をし、服薬を中断されている方は一人もおられませんでした。
案外みなさんたくましいなあと思いました。

週の後半は仮設住宅の全戸訪問に同行し、健康状態や生活で困っていることなどを伺い、サポートが必要な方は地元の保健師さんに情報提供を行いました。
仮設住宅は2人でちょうど良いぐらいの広さなのですが、そこに5人までが入居されるとのこと。
布団を5枚敷くスペースもない狭い空間に入居されるということで大丈夫だろうかと思いました。
仮設住宅には津波で家を失った方が多く居られ、災害の悲惨さに胸が痛みました。
また、保健師さんからの依頼で、抑うつ状態で心配な独居の高齢者宅への訪問なども行いました。

自然災害に加え、原発による被害の甚大さに、私は衝撃を受けました。
南相馬市の職員さんも被災者で、自宅が原発から半径20キロ圏内の警戒区域にあるため自宅に帰れず、避難所から通勤していた職員さん、同じ保育園の友達と一緒に小学1年生になることを楽しみにしていたけれど、子どもは祖父母宅に避難し、遠い地の小学校に行かざるをえず、家族がバラバラで生活している職員さん。
また、配偶者が病院の看護師長さんで、原発が爆発した時に、「子どもたちをよろしく!私は病院に残る(患者さんを守る)から・・・!もう一生会えないかもしれない」と言われたと、笑い話のように話しておられましたが、事故当時は戦場のようだったと言われていました。

入院中の患者さんたちは自衛隊のヘリコプターで全員県内外の病院に運ばれたのですが、「患者さんたちは本当にかわいそうだった」とおっしゃっていました。
警戒区域の病院は全て閉鎖ですが、そこの職員はどうなるのか・・・。
既に半数の職員が退職しているそうです。
病院再開時にスタッフが足らず、再開できないのではないかと危惧されています。

30キロ圏内の幼稚園や学校は、全て30キロ圏外の体育館などを借りて授業をしており、子どもたちはバス通学しています。
私の滞在中、子どもが外で遊んでいる姿を見たことは一度もなく、全く子どもの姿の見えない町に違和感を覚えました。
また、国の方針で、原発より30キロ圏内での入院治療は許可されず、「救える命も救えない」と地元のお医者さんたちは悲痛な声を上げておられました。
30キロ圏内は田や畑で作物も作ってはいけないとのことで、耕作地が放置されていました。
畑作業を生きがいにしている方も多いわけで、その方たちが心の張りを失ったり、家に閉じこもりになったりすることが心配です。
こんなにも生活が破壊されていることに衝撃を受けました。

また、宇部への帰路の途中、福島市に住む友人にいろいろ話を聞きました。放射能汚染のことで、特に子どもを持つ親たちは殺気立っており、学校の先生方もその対応に相当疲弊されているということ、また、遠方に避難するとかしないとかで、いろいろな感情のしこりも生まれ、人間関係や信頼関係も壊されていると聞きました。

原発事故による放射能汚染のみならず、生活の破壊、地域の破壊、人間関係の破壊にまで及んでいることに私は大変なショックを受けました。

この福島の状況を忘れず、ずっと見つめていきたいと思います。

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