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第7次支援(4月17日~23日)の記録

佐々木広子 虹の訪問看護ステーション所長・看護師 / 震災支援の記録

4月17日 羽田に到着

日曜の夕方というのに、羽田空港はうす暗く寂しかった。
お茶の水へ電車で移動。ほとんどのエスカレーターは節電のため停止されていた。

寝袋をくくりつけた重いキャリーケースを担ぎあげ、延々と階段を登った。

4月18日 坂総合病院へ

全国の民医連から集まった29人の支援者とバスに乗り宮城にむけ出発。
宮城までは7時間。
後30分くらいで到着すると思っていると突然目の前に異様な光景が広がった。

広い田畑に瓦礫が散乱しここに津波が押し寄せたことがわかる光景に息をのんだ。

4月19日 支援初日

午前は支援者のための食事当番だった。
食事は車で30分ほど走ったところに取りにいく。道中、被災者霊案所と書かれた大きな看板が現れた。
車中ではあるが、手を合わせずにはいられなかった。

午後、下馬の友の会へ参加。
そこに被災した二日後に炊き出しを始めた女性がいた。
「私はもともと食べ物屋をしていた。被災して家の中はめちゃくちゃだったけど、私にできることはなにか考えたら、炊き出しをすることだった。なんとか水と米を手に入れてご飯を炊いてだした。」
この女性、私が血圧を計った時、疲れた表情が気になった方だ。

被災以降、気持ちの休まる暇がなく疲れていたが、家族に友の会に行って気分転換してくるように言われて来られたとのこと。
地域に根付き、大きな役割を担う存在になっている友の会はすごいなとあらためて感じた。

4月20日 多賀城ホールの避難所へ

避難所では、継続的な看護ができるようリーダーを中心に訪問前にミーティングがある。注意してかかわる必要がある人のリストが配られ、リーダーから簡単な申し送りを受ける。

私が訪問した時はすでに被災からひと月経過していたため、かかりつけの病院も診察が開始されていた。薬が無くて困っている人もいなかった。

むしろかかりつけの病院に行きたくても通院介助をする人がいない人や、非日常的な環境下で継続的に生活指導が必要な慢性疾患の患者さんの存在が気になった。

支援者が日替わりで緊急的に関わっていく時期から、この地域に継続的に関わっていく地域のサービスにつなげていく時期にきているように感じた。

4月21、22日 長町、若林地区の地域訪問へ

地域を一軒ずつ訪問し、状況確認をしていった。
地震で倒れた家具などは元の位置に戻され、ほとんど家の中は片付いていた。
町内会も機能しており、独居老人の家の片づけも地域で取り組んだとのことであった。

住民の中には民医連が全国から集まり、自分たちを心配してくれていることに感動し涙を流される方も少なくなかった。
逆に病院が無事だったことを心から喜んでくださり、「以前お世話になったことがある。あの病院がなければ私たちは困るんです」と有難い言葉をかけて頂いた。

支援中も毎日のように地震が起きた。津波がすぐ近くまできた家で今も生活は営まれている。
いつ大きな地震・津波がくるかわからないため、いつでも非難ができる準備を玄関に備えている。
生活は取り戻せてきていても、常に恐怖心があり、それは取り払うことができないと異口同音に話された。

4月23日 宇部空港へ

支援が終わり無事宇部に到着した。

自分の家で周囲を気にせず眠れることのやすらぎや地震で一回も覚醒せずに朝を迎えられる安心感はたとえようがない。

一日も早く、被災された方が当たり前の生活を安心して送ることができる日がくるよう心より願う。

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