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第2次支援(3月31日~4月4日)の記録

松野美紀 宇部協立病院3階病棟師長 / 東日本大震災支援の記録

東日本大震災支援に参加して 場所:宮城県多賀城市 天真小学校

3月31日

家族からお守りや見送り、親戚中からメールか来たりと現地に到着するまではまるで戦地に赴くような心境でした。

看護師2年目の頃に、阪神・淡路大震災の支援で西宮に行ったことがありましたが、その時は何をしたのかほとんど覚えておらず、このたびは力仕事でもなんでもしようという意気込みでした。

4月1 日

全日本民医連からバスで約6時間。
サービスエリアでは岡山や広島の消防隊員と遭遇したり、東北のサービスエリアの駐車場には重機を積んだトラックが多くなりその様相も変わってきていきました。
東京や沖縄からなど各県の民医連職員が集いその支援者数は1400名を超えるそうです。

支援事務局は全日本民医連と宮城民医連、北海道の民医連事務員も事務局となり、やや混乱しているように見受けました。
支援内容は避難所支援、地域住民の訪問、病棟勤務(日勤夜勤)、老人ホーム勤務などです。

4月2日

避難所へ。

私が訪問した避難所は小学校で、体育館と各教室に被災された方がおられました。
保健室を診察室とし、私は体育館の被災された方の見回りを大阪民医連耳原病院の内科医と東京民医連の事務職員と行いました。

体育館には約450名の被災された方がおられるということですが、日中は家屋や瓦礫などの片付けなどで人はほとんどなく、子供やお年寄りが数十名おられました。
体育館での生活は仕切りもなくプライバシーは全く守られず、夜9時には電気が消え、明け方3時ころから起き始めるお年寄りもおられるため不眠で、被災者の生活はストレスで溢れているというような印象でした。
その結果血圧が通常より20以上も高くなっていた方が多数おられました。
また体育館はその場所によって温度差があり、入り口側は人の出入りのたびに外気が入り寒い思いをされている方もおられました。

印象に残ったことは脳梗塞後遺症の女性で、在宅では体圧分散マットを使用されているということでしたが、体育館では体育で使用するマットの上に2つ折りにされた毛布を2枚敷いた上に休まれていました。
しかし体中が痛くなり日中ほとんど車いすで過ごすことが多くなり、下肢の浮腫や股関節の拘縮などをきたしていました。
そのため弾性ストッキングや翌日作業療法士の参加があったため立ち上がりの訓練をはじめとしたリハビリを依頼しました。
このような方は本来は避難所より何らかの施設に入所が望ましいのではないかと思いますが、現在どこも一杯のようで難しいということでした。

この日から避難所でやっとお湯が使用できるようになり、水量は300リットルと限られていましたが、8か月の乳児を耳原病院の小児科医とともに沐浴を行いました。
震災後初めてのお風呂でしたが、体中をかゆがって真っ赤になっていました。
かなり垢が取れ奇麗にはなりましたが、随分と泣かれました…。
この避難所は入学式を21日に控えているため8日で閉鎖になるということでした。

被災された方の中にはまだ行き先も決まっておらず、不安を抱えている方も多く見受けました。
自宅1階が浸水したものの、何とか布団だけを買い、暖房類は全くないまま、今後2階で暮らす予定の方もおられました。

実質2日間の支援でしたが、状況や被災された方の名前と顔が一致し始めた頃に支援が終わってしまいました。
被災された方は全体的に落ち着いておられるという印象でしたが、この生活が長期化してくるとストレスや不安、感染症などで更に健康に被害が生じてくることが予測されます。

長期にわたる支援が必要ですし、支援者は医師や看護師、薬剤師の他リハビリ、事務、介護など、どの職種も必要でできることがあると思います。
今後も継続した絶え間ない支援が必要だと思いました。

大変な被害を受けたにも関わらず、被災された方は明るく笑顔で、山口から来た事を常にねぎらってくださいました。

自分よりもっと被災して大変な人がいるからと、皆さんひかえめで、色々な人を気遣ってくださる姿勢に、日々の不満を顔や口に出している自分の姿勢について考えさせられました。

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