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第2次支援(3月31日~4月4日)の記録

松永信 宇部協立病院院長・外科医師 / 東日本大震災支援の記録

東日本大震災支援日記 (3月31日~4月4日 於:宮城県多賀城市)

3月31日(木)

16:30宇部空港を出発し、19:30ホテル聚楽御茶ノ水に到着した。

4月1 日(金)

9:00平和と労働会館前より全国から集まった19名の支援者とともに京王バスで宮城県の坂総合病院に向かう。

首都高に乗り川口JCから東北自動車道で一路仙台へ。途中、蓮田SA、上河内SA、国見SAで休憩し、上河内SAで早目の昼食を取る。
SA では、広島、岡山の消防署員を何度も見かけた。
福島県内は、原発事故による放射線被害を心配してかSAには立ち寄らず。

14:00仙台南ICで東北自動車道を降り、仙台南部道路で名取川に沿って下る。
海岸に近づくに連れて畑に津波で運ばれたと思われる生活用品とゴミが散乱し、ブルーシートで屋根を覆った家が散見され始めた。

仙台若林JCTで南北に伸びる仙台東部道路に乗り換えた。有料道路が堤防の役目(高さ5~10m)を果たし、道路の東側の畑にはゴミ・瓦礫が散乱しているのに、西側の畑はわずかに波が打ち寄せた痕跡が残っている程度であった。

仙台港北ICで高速を降り、多賀城市内に入った。
街の様子は一変し、道路横の空き地には、ガラスが割れボディがくぼんで動かなくなった車が寄せ集められていた。
バスに同乗していた東京民医連の人の話では「一週間前よりは、ずいぶん綺麗に片付けられている。前は、壊れた車がズラーと路駐していた」とのことだった。
道路沿いでは、泥水に浸かり壊れた店舗の後片付けをしている人はいたが、開店している店はなかった。

仙塩街道を坂総合病院に向かう。砂押川を超えると地震の被害は軽微で、被災者は川より北側(坂総合病院寄り)に避難していた。

15時すぎに坂総合病院に到着。新館2階で受付とオリエンテーションを済ませ、クリニック1号館8階の会議室に荷物を降ろした。

18:00支援医師のミーティングが1号館2階待合室で行われた。 全国から支援に駆けつけた 医師の 自己紹介と今までの支援の現状と課題が詳細に報告された。震災後3週間経ち、救急のトリアージの段階は終了し、上気道炎を中心とした感染症対策と慢性疾患をどうするかという段階に移っていた。

その後、病院内の支援者用炊き出し部屋で食事を取った。食事は温かいものはなかったが、ご飯にシャケと惣菜で、思っていたより きちんとした食事が摂れた。
1号館8階の会議室に戻り、床に毛布を敷きその上の寝袋に入って横になった。

21時少し前この文章を書いている最中に、支援にきて初めての余震を経験した。震度4!油断するべからず。

4月2日(土)

避難所支援1日目(多賀城市文化センター)

8:00初めて支援に入る人のための諸注意があった。全国の民医連院所から坂病院への支援者は累計1400名で、現在の支援活動は避難所に8割、病院に2割で行っていた。

8:30新館2階のカンファレンス室で、支援者全体の朝のミーティングが始まった。
夜間師長から前日の救急とベッド状況の報告があった。
救急車搬入が8台あり、そのうち数名が入院と手術になった。
近隣の病院が災害で外来機能と入院が出来なくなり、整形の救急要請が増えているが、坂病院の整形病床が満床で断らざる得ないという報告がなされた。

避難所支援は医師4名、看護師5名、薬剤師1名、事務2名、高校生2名、報道1名(日本電波サービス社) 計15名の編成。
坂総合病院からタクシーを使い約10分あまりで到着。和風門構えの鉄筋で出来た立派な建物。
門を入ると自衛隊の車両が数台並び、大型テントが二張り張られていた。男女それぞれの仮設風呂場となっていた。
建物の中に入ると照明が落とされている中で、避難者が生活していた。
最大2400名の避難者が現在は600名を切っており、予想していたより落ち着いていた。

2Fホールの天井は高く、日中は空調が低めに設定されているせいか肌寒く感じた。
診療ブースは、入り口から15m入った階段下の空きスペースに折りたたみ机を2脚と衝立2枚を運び2診とした。
2枚の衝立では、プライバシーを保てず、本日は仕方なくそのまま診療したが、今後はシーツ等を使ってプライバシーを守るなんらかの工夫が必要だ。

診療ブースでの診療とセンター内各部署の往診と足湯隊の3つのグループに別れて仕事を始めた。
医師は2名ずつブースと往診に別れ、私は最初にブースを担当した。

午前の診療は、比較的余裕があった。
疾患は風邪が多く、簡単な診察と3日分の処方書きがほとんどだった。問診は事前に看護師が聴取してくれた。
カルテは無く、A4用紙に名前、生年月日、住所を書いて主訴,現病歴、現症を記載する簡単なもので、処方欄を赤丸で囲む事を忘れないよう繰り返し強調された(行政に事後に請求できるのは処方薬のみの為)。
医療の継続性という観点では非常に問題のあるカルテで、今後改善する方向であると事務局からの報告があった。

診療の合間に、3Fの往診に廻った。
部屋に居る人は少なく一人一人声かけをして回り、必要な人には、診察と処方をした。重症者はおらず、風邪をはじめとする軽症がほとんどであった。
受診者の一人は、「地震が心配でちょっとした物音にもすぐ起きてしまうので眠れない」と訴えた。

センターの医療は坂総合病院と自衛隊と開業医が入っており、宮城大学の看護科の教諭(保健師)も参加していた。
日中 部屋にいる人が少ないのは、仕事や自宅の後片付けなどに出かけているためで、日中の避難者数は200人で、夜になると600人になった。
子供の駆け回る姿とボランティアによるストレッチ体操と食事の配給に並ぶ人の列が印象に残った。

午後の診療も午前と同様だった。少し余裕が出て、館内巡廻に出かけた。
掲示板に、山口県上関祝島からの激励ファクスがあった。内容は「震災児童の受け入れ」に関するものであった。
山口県から支援にきたものの一人として誇らしく思うと共に、原発反対で頑張っている祝島の人たちの心優しさに感激した。

午後の診療は16時で一旦切り上げ、坂総合病院に戻り、まとめとミーティングを行った後、小休止と食事をとった。
16時から18時までは自衛隊仙台病院が担当した。

夜診は、18時開始で、医師4名、看護師4名、薬剤師2名、事務1名,報道1名,計12名編成となった。診療内容は変わらないが、若い人の受診が多く、上気道炎症状を訴える人の中に、不眠や動悸等の心の領域と思われる患者も見られた。
同じフロアーの少し離れた広場で、被災者のためのイベントが開らかれた。
三味線、落語、アフリカ民族太鼓等が賑やかに行われ、笑いと拍手が診療の合間に聞こえた。

多くのボランティアが自分たちのできることで被災者を励ましていた。

20時半ごろまで診療を行い、坂病院に帰った。

4月3日(日)

避難所支援2日目(天真小学校)

医師3名、看護師3名、薬剤師1名、事務・技術者3名、の10名で3グループに別れ、保健室での診療、体育館往診、教室廻りを行った。私の任務は避難所支援Bチームのリーダーで保健室での診療となった。

この春開校予定の建物で保健室に入るなり、ペンキの匂いがした。
文化センターと同様に、日中は100人ぐらいで、夜間は600人ぐらいになるとのこであったが、文化センターと違い夜診は無かった。

患者も上気道炎が主で、あとは不眠等の訴えが目立った。支援二日目で診療の要領が掴めたので、時間が許す限り患者の話に耳を傾けるようにした。
風邪症状で罹った一人暮らし50歳台男性は震災後の苦労とこれからの不安を20分話し続けた。

すぐ近くのシャワーコーナーで8ヶ月の赤ん坊がシャワーを浴びた。
嬉しそうな泣き声が診察室のカーテン越しに聞こえ、癒しの時間となった。
また、医療活動だけでなく様々なボランティアが活動していた。

東京からきたボランティアが子供達と一緒に大きな絵を描きあげた。
2×5mの横断幕の様なその絵の披露とお別れの会が大きな拍手の中12時から行われた。
絵の中央には祭りの御輿を担ぐ人々と両脇に満開の桜と鮮やかなグリーンの新幹線が走っていた。
子供だけでなく大人にも笑顔が見られ、被災者を元気づけた。

一旦、坂総合病院に戻り、パンとカップ麺の昼食をとった後小休止した。

午後は14:00開始で、最初はボツボツの出だしだったが、15:00を過ぎるくらいから途切れること無く受診者があった。
保健室での診療は計14名、小学校全体で45名だった。
16時に受付を終了し、16:30には支援撤収を完了した。

天真小学校の避難所は、新学期が始まるので4月8日(金)で閉鎖され、他の施設に統合される予定と聞かされた。
帰院後、ミーティング直前の17時に支援に入って 2度目の大きな揺れを感じた。
ミーティングでは、個人のカルテを作る必要性が強調された。

今日で実質的な支援は終了した。丸二日間の短かい支援ではあったが、被災された現地の人になんらかの支援ができたのではと少しの自己満足とこれからの継続的な支援の必要性を強く感じた。

4月4日 (月)

支援を終了し帰途に着く。

出発時間までの間で、坂総合病院からタクシーに乗って近隣で被害が大きかった七ヶ浜に視察に向かう。
道路の瓦礫は綺麗に撤去され 、15分ほどで現地に到着した。
浜沿いの住宅地は、焼け野が原 (津波が原?) 状態で、残った家も屋根だけがぺしゃんと地面に乗っかっている状態だった。

改めて津波の凄さと無情さに驚いた。

16年前、支援に行った阪神淡路大震災は直下型地震だったため、地震の縦揺れによる建物の倒壊と火災による被害が目に焼き付いている。
今回の地震は大平洋沖で起こったプレートのズレと跳ね上がりによる横揺れと津波による被害であった。
バスやタクシーで回った範囲では 、揺れによる道路の分断や橋脚の倒壊はほとんど見られず、波が全てを根こそぎ掠っていったという印象だった。

1時間の視察を終え、暗澹たる気持ちで坂総合病院に戻り、帰り支度を整えバスに乗り込んだ。
帰りは、長町駅前で2人乗せ、東京駅に15時すぎに到着した。

《支援を終えての感想》
震災後3週間経って、現地の支援に入った。
道路、電気、水道などのライフラインは一定復旧し、街も少し落ち着きを取り戻しつつあった。
その一方、避難所で生活する人の数は、日に日に少なくなっているものの、室内の寒さ、冷たい保存食、段ボール一枚のプライバシーなど生活環境は依然として劣悪である。
一刻も早く仮設住宅の設置が求められる。

避難所の疾患は、上気道炎が主で不安、不眠を訴える人も増えている。
インフルエンザやウィルス性腸炎などの感染症も散発している。
これまでの慢性疾患をどこで治療するかで困っている人も見られた。
これから、被災家屋の片付け等での粉塵による呼吸器疾患とくにアスベスト被害が心配される。また、PTSDも問題になるであろう。

震災支援活動は、長期になる。腰を据えて、現地が必要とする支援を息長く続けて行くことが大切だと思った。

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