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第1次支援(3月17日~21日)の記録

野田浩夫 健文会理事長・内科医師 / 東日本大震災支援の記録

宮城県松島町・東松島市の避難所訪問の記録 2011/03/22 H.Noda

3月17日(木)

9時50分に医師1、看護師2、事務職員1のチームで山口宇部を出て、羽田で飛行機を乗り継ぎ、13時40分に庄内空港に着いた。
空港まで迎えに来てくれた庄内医療生協の車で、15時から宮城県松島町に向かって出発する。
富山医療生協の2トン車が後を付いてくる。

この日は吹雪の日で、月山のふもと付近は前が見えない。
山形自動車道の寒河江(さがえ)まで3時間かかり、この辺で真っ暗になる。
松島町の松島医療生協 松島海岸診療所に着いたのは20時30分。
停電を予想していたが、直前に復旧したとのこと。

しばらく富山医療生協の支援物資をおろして収納するのを手伝う。道路はヘドロが覆っており、この時点で靴は泥だらけになる。
海岸診療の山崎所長、松島医療生協の青井専務から被災状況と明日の日程を説明される。隣の東松島市にあるディーサービスで職員3人が殉職し、利用者も10人くらい亡くなっている。
地震の日、落ちてきたもので生じた頭部の裂傷を縫合して逃げるのが遅くなったという話を山崎先生から聞く。

23時に高台にある宿舎の新富荘に行く。立派な観光旅館だが、地震の日から2階部分にしばらく600人が避難したとのこと。もちろん断水しており、食事は出ず、トイレも大のほうは使いようがない。6人で1部屋を借りていた。

これからしばらく水のない生活が始まる。

3月18日(金)

旅館が給水車からもらってきて用意してくれる。
ポット1日1個の湯を使ってタオルを濡らし顔と髪を拭く。
食事は基本的にカロリーメイトだけで済ませることとする。

晴れた朝を歩いて診療所に向かうが、あたりの被害は意外に少ない。
松島湾は沖合いの宮戸島が自然の堤防となり、津波も数10cm程度で済んでいるので、診療所の被害も1階が浸水しただけである。ここだけ見ると通常の水害と変わらない。
したがって、私の仕事は被害の大きかった東松島市の避難所周りである。
3日間とも診療所のYさんが運転し案内してくれた。

仙石線矢本駅が東松島市の中心地で、近くに航空自衛隊松島基地がある。石巻に向かう幹線道路である国道を通って、鳴瀬川を渡ると被害が著しくなり始める。あたりの田んぼはすべて海水が冠水している。
矢本駅周辺の2箇所の避難所を訪問。診察し、薬を渡す。
降圧剤や精神安定剤、抗菌剤の要望が強いはずなのでそれは特別に大量を用意しなければならないという僕の予想が的中する。

ちょうど12時になり、一つの避難所で食事を食べていくように言われたので遠慮なく頂くこととする。

しかし、意外に早くこの仕事は終了する。診察希望者が少ないのだ。
そのあと東松島市の保健センターで保健婦さんと会って、「この二つの避難所を継続して担当してほしい」、また「ほかの避難所の夜間巡回をしてほしい」という希望を聞く。

この日は東大の精神科も避難所を回ったとのことだが継続的ではなく、不安が高まる夜に医師が顔を出してほしいということのようだ。もっともなことだが、希望に応じられるかどうかは僕が決められることではない。山崎所長に伝えると言って帰った。

診療所に帰ると、同僚の殉職に立ちあったという職員と同席することになり、しばらく話を聞く。
1階の掃除が大々的に始まっていたが、それには加わらず、古い文庫本で堀田善衛「方丈記私記」を読む。鴨長明が遭遇した地震と津波のことが書かれており、この場で読むのにふさわしいと思い持ってきたものである。

若干場違いだと思ったが、心を決めて静かに本を読んでいると、隣室では松島医療生協の理事会が開かれており、今後の方針で激論が交わされているのが聞こえる。被害の大きかった地区の理事はもちろん出席できないままである。
夕食はレンジで暖めたご飯にレトルトのマーボ豆腐をかけたものを診療所で頂いた。

夜は山崎所長と青井専務理事も同室に泊まることになり、山崎先生の「高齢者に優しい診療所作り」と認知症の取り組みへの熱弁を聞く。

3月19日(土)

昨日と同じくカロリーメイトの朝食。

9時に診療所に行くと、毎月の全日本民医連理事会で会う鹿児島生協病院の馬渡医師が来たので、何となくほっとする。

今日は馬渡、野田の医師2人と山口からのメンバーで避難所周りである。
元は小学校だった施設を使っている避難所に行くと、兵庫県医師会のメンバーがすでに町の職員と打ち合わせ中だった。
輪の中に入ると「誰が問題なの?その人の病名は何?」とリーダーらしい医師が、いかにも医者らしい態度をあらわにして町職員に聞いている。町職員がそんなことを正確に把握しているわけがないので僕はついイラついてしまう。そんなことは自分が出かけて本人と話してみればおおよそ見当がつくではないか。思い切って「ともかく診察してみましょう」というと、兵庫県医師会の別の医師が部屋の分担を提案してくれる。じゃそれで行こう、ということになった。この日は兵庫県知事が宮城県に来ていて、ここでも挨拶をするということらしかった。それはそれで結構。

そこが終わると、東松島市蒜にある定林寺というお寺を避難所にしているところに向かう。刺し傷で膝が腫れあがっている人がいるのに緊張する。

昼食はお結び。それから山手側にある東北本線品井沼駅付近の大きな避難所に行く。ここには水が来ている。

ここに午前中からいた兵庫県医師会のチームが去るところだったが、二人の若い医師が申し送りをしたいという。
聞いてみたがさっぱり要領を得ない。自分の所の研修医だったらプレゼンテーションの仕方について指導の2,3もしたいところ。インスリン注射以外の薬はごく僅かしか持参していなかったようで、相当のカバーが必要だった。

3月20日(日)

この日は18日に行った2箇所と19日のお寺の合計3箇所を周る。
前回の診察で必要なことが判明した特殊な薬を山崎所長に手配してもらったのでそれを届ける仕事もある。

2日前、1日前に来たばかりなのに受診希望がさらに増えている。海岸診療所で補充してもらったので、渡す薬を28日分にすることが多くなる。何度も来ることができないのでこれは当然である。薬を渡すとお金を払おうとしている人がいたので、はっとする。
有料だと思って診察を受けない人もいたのだろう。
それで初日は受診希望が少なかった可能性がある。

金のことを言うのは品がないが「無料診療に来ました」と言って部屋に入ることに決めた。

予定を大幅に超過して14時に海岸診療所に帰ってきた。
松島から石巻、南三陸、気仙沼に向かうほどに被害は大きくなることは分かっているのに東松島より向こうには行けなかったことをなにより悔しく思いながら、これで今回の活動を終わることにする。
石巻以北に関わることなしに支援はありえないと改めて思う。

帰りは、同じく庄内医療生協の車に乗せてもらって鶴岡に向かう。
月山のふもとが雪崩れのため通行止めとなり新庄を回って帰ることになった。
トイレ休憩で立ち寄ったコンビニには雑誌と少しのビールしかない。見事に棚は空っぽである。山形の物流の中心は仙台なので何も入ってこないのだ。この状態で店を開けているのは山形と被災地を往復する通行者のトイレの便利のためだけなのだろう。お礼に何か買わなくてはと思って、飲みたくはないビールを手に取る。こういう物資状況で山形が宮城を支援するのは至難のことだというのを、夜に岩本さんから聞くことになる。
しかし、初めて見る最上川が、霧の出始めた薄暮の光の中でほとんどこの世のものとは思えないくらいに美しい。

鶴岡に着くと、民医連の岩本副会長が慰労会を用意してくれていた。3日ぶりにシャワーを浴びて、日本酒を飲みに出かけたが、避難所の人たちを思うとやはり気が引けることではあった。
岩本さんの考える今後の避難者支援のあり方について聞いてその日は終わった。

西日本が頑張るしかないのだ、と岩本さんは言った。

3月21日(月)

行きと逆に帰りながら、堀田善衛「方丈記私記」の続きを読んだ。
14時05分、宇部空港着。

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